利害の足し算では公共はつくれない――公共性の三つの次元とパブリックアフェアーズ

コラム

公共性はなぜ政治の土台なのか

 前回のコラムでは、公共性というものを、だれもがアクセスでき、異なる価値をもつ人びとの間に生じる空間としてとらえました。今回は、ハーバーマスの議論を中心に置きながら、公共性という考え方を手がかりとして、もう一歩踏み込んで考えてみます。

 法の中心にあるのが正義だとすれば、政治の土台となるのは公共性です。なぜかといえば、わたしたちのすべての行為が政治なのではなく、政治とは社会全体にかかわる意思決定、つまり公的な行為に限られるからです。私的な世界での言動は、基本的には当事者だけにかかわるものとして、政治とは区別されてきました。

 もちろん、フェミニズムの政治思想が明らかにしたように、家族などの親密な関係のなかにも争いはありますし、政治的な意味を帯びる言葉もあります。それでも、公的な領域と私的な領域とを分け、政治を公的な事柄としてとらえることが、政治理論において長く受け継がれてきた見方でした。

公共性は利害調整の結果にすぎないのか

 では、公共とはいったい何を指すのでしょうか。かつては、公共を社会や国家の全体を表すものとしてとらえ、個人と共同体とを調和させようとする理論が有力でした。ルソーやヘーゲル、マルクスらの政治理論がそれにあたります。しかし、ルソーに影響を受けたロベスピエールは恐怖政治を招き、マルクスの社会批判は、実践に移されると全体主義的な体制へと転じる傾向をもっていました。とはいえ、恐怖政治の責めをルソー本人に負わせることはできません。それでも、こうした歴史は、個と共同体の調和という発想そのものに危うさが潜んでいることを示しているように思います。

 これに対して現代では、公共性を、さまざまな集団の利益を調整した結果としての公益に置き換えて考える見方もあります。たしかにこの見方は、社会の秩序を合理的かつ効率的に管理することを可能にするかもしれません。しかし、そこには大きな見落としがあります。それは、公共の事柄を決めていく市民の討論と熟慮、つまり、互いに論じあい、じっくりと考えをめぐらせていく過程や、数値では測ることのできない、一人ひとりの内面に育っていく公共の意識をとらえきれないという点です。

 パブリックアフェアーズに携わる者にとって、この指摘は耳の痛いものかもしれません。政策形成を利害の足し算と引き算としてとらえてしまうと、どれだけ多くの利害関係者を集めたかが勝負になってしまいます。しかし、公共性は、そうした足し算の答えとして自動的に出てくるものではありません。討論と熟慮の過程そのものが、公共性をかたちづくっているのです(政策に関与する際に、法制度の改変に一直線に向かうやり方と比べれば、時間と根気とが必要となります。しかし、長期的に見れば、その利益は比すべくもないものになります)。

 ここで手がかりになるのが、ハーバーマスの議論です。社会の営みは、議論し行動する市民の意識を通じてしか成り立たないという彼の視座は、民主主義を根底からとらえ直すうえで重要です。近代の民主主義が代表制に正統性を与えてきたのだとすれば、これからの民主主義は、参加に基盤を置く仕組みを構想していかなければなりません。

公共性の三つの次元とは何か

 公共性という言葉は、ほかの多くの政治用語と同じく、いくつもの意味をもっています。ここでは、公共性を次の三つの次元で整理してみます。

①国家や社会の全体にかかわる事柄
②共通の事柄について公開で議論する空間
③公共の意識、公共精神

 前回のコラムで引いた齋藤純一氏の議論は、このうち2つめにあたります。人びとが共通の関心事について意見を交わし、政治的な意見をつくりあげていく言説の空間という理解です。これは、ハーバーマスが 1962 年の著書『公共性の構造転換』で展開した議論をもとにしたもので、この意味では公共圏という言葉が次第に使われるようになってきました。

 3つめについては、ハンナ・アーレントの議論が手がかりになります。アーレントのいう公的な空間は、だれもが目にすることができ、人びとに共通しているという性格をもち、私的な領域とははっきり区別されます。それは、一人ひとりがかけがえのない自分を表す現れの空間であり、人間が人間として生きるために欠かせない条件だとされます。ここで重要なのは、公的な世界の担い手はあくまで一人ひとりの人間であり、他者とともに語り、行為することが公共精神を紡ぎ出していくという点です。

上からの公共性と下からの公共性とは何か

 公共性は、さらに2つの対比でとらえることができます。ひとつは、国家の強調や国民意識のまとまりに向かう国家的公共性と、国家を超える普遍的な理念を含んだ、人類普遍につながる公共性という対比です。

 もうひとつは、上からの公共性と下からの公共性という対比です。政府やマスメディアが世論をつくり、誘導していくなら、それは上からの公共性です。反対に、草の根の人びとが意見を交わすなかから世論が形づくられていくなら、それは下からの公共性と言えます。そして、その際に決定的な役割を果たすのが、公的に活動し討議する人たちの圏、すなわち公共圏です。公共性を規範的な概念として考えるなら、人類普遍につながる公共性と下からの公共性が重要であることは明らかでしょう。
パブリックアフェアーズは公共性にどう関わるのか

 以上の議論は、パブリックアフェアーズのあり方を考えるうえで、少なくとも2つの示唆を与えてくれます。

 第一に、政策提言は、自社や業界の利害を足し合わせるだけでは公共性を帯びません。求められるのは、利害を異にする人びとにも届く理由を示し、公開の議論にさらすことです。数で押すのではなく、理由で語ることこそが、公共の事柄を決める討論と熟慮の過程に加わるということなのだと言えるでしょう。

 第二に、パブリックアフェアーズは、上からの公共性に加担してはならないということです。広告や発信の力によって世論を一方向に誘導することは、短期的には効果があるかもしれません。しかしそれは、市民が意見を交わしながら世論をつくっていく過程を、外側から操作することにほかなりません。それに、そのような活動をしても政策の社会的受容性は決して高まりません。私たちが目指すべきは、現場の声や新しい発想を公共圏に持ち込み、議論の材料を増やすことで、下からの公共性の形成に貢献することでしょう。もちろんそれは同時に、政治家や官僚等の政策に関わる人びとが政策を検討する際のサポートをすることになるという側面をもちます(このことについてはまた別途述べます)。

 公共性は、だれかが上から与えるものでも、利害の足し算から自動的に出てくるものでもありません。一人ひとりが他者とともに語り、行為するなかで紡がれていくものです。政策の扉をともにひらくとは、その営みに、ひとりの参加者として誠実に加わることなのではないかと考えています。

参考文献
・寺島俊穂『現代政治とシティズンシップ』晃洋書房、2013 年、62-64 頁
・ユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』細谷貞雄訳、未來社、1973 年
・齋藤純一『公共性』岩波書店、2000 年

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